昭和28年大浜にて店舗開業
昭和28年6月9日大浜(現在の築港)にて店舗開業、当時大浜に魚市場があった
昭和30年頃大浜の店舗を閉め、屋台に切り替え、中州で営業する。中州で営業するも昔の仲間(当時でいう愚連隊)に食いつぶされそうになる。
常連客より今、西新が急速に発展していると聞き、屋台を博多駅方面より西新(城南線)まで毎日、人力で屋台を引いて営業を行った。
昭和28年6月9日大浜(現在の築港)にて店舗開業、当時大浜に魚市場があった
昭和30年頃大浜の店舗を閉め、屋台に切り替え、中州で営業する。中州で営業するも昔の仲間(当時でいう愚連隊)に食いつぶされそうになる。
常連客より今、西新が急速に発展していると聞き、屋台を博多駅方面より西新(城南線)まで毎日、人力で屋台を引いて営業を行った。
昭和31年頃 早良区西新 城南線に屋台移転
屋台での飲食と店員たちにチャルメラで注文を取らせ、出前を行う。
ちょうどその頃、城南線の「しばらく」の屋台の隣に「天ぷらの柳川」の屋台があった、「天ぷら柳川」の主人の奥さんの妹と結婚する。
昭和33年に長男が誕生
創業者 外村泰徳は西新の賃貸の店舗を買取、長浜魚市場正門前に屋台を支店として出店
当時、一心亭(屋台)、しばらく(屋台)、長浜屋(店舗)この3店。長浜に行けばいつでもラーメンが食べられるということから通称「長浜ラーメン」という名称がついた。
当時の、豚のエサは現在のようなトウモロコシ等を主原料とした配合飼料ではなく、食品産業から出る廃棄物や家庭から出る残飯が多かった。その為、豚骨スープの「豚骨臭」も現在よりも非常に癖があった。その癖をマイルドに軽減させる為、試行錯誤を繰り返した。昭和33年「すりごま」を入れることで、「マイルドでより一層美味しい」ラーメンに辿り着いた。
『暫』(しばらく)は、七代目市川團十郎の歌舞伎の演目で歌舞伎十八番の一つ。「いよっ、十八番!」という掛け声は、ここに由来しています。
博多ラーメンの十八番を目指すようにとの思いで、知り合いの叔母 昔、対馬小路の料亭の女将より命名された
長浜に屋台を出店していた昭和30年頃、「しばらく」「長浜屋」「一心亭」の3店舗で通称、長浜ラーメンと呼ばれていた。長浜に店舗がないのに長浜ラーメンの人気に便乗して「長浜ラーメン」と名乗るラーメン店が非常に多く、それを疑問に感じ、昭和52年「博多ラーメン」という名称を当店が考案した。今では「福岡のラーメン=博多ラーメン」になった。
すりごま
豚骨スープの「豚骨臭」をマイルドに軽減させる為、昭和33年「すりごま」を入れる事を考案。一層美味しいラーメンに辿り着いた。
キクラゲ
昭和30年代、海苔の価格高騰により海苔の代用品としてラーメンの具材として考案。
ラーメンどんぶりの受け皿
配膳中にスープに指が入って衛生的ではないと考え、ラーメンどんぶりを受け皿に乗せて配膳を開始した。
ダブルラーメン
当店の大盛りラーメンは麺を2玉分使用することから命名した。